初任研中学校国語現場からの報告(その12) 目標の設定

 初任者が、ある学習の目標設定を生徒にとっては高度だと思い込み、設定を下げてしまうことがある。ベテランの先生でも、「スモールステップ」と称して、知らず知らずのうちに学習目標を下げることが見られる。

 この時に、生徒の学習に関する教師の予断がないだろうか? 「どうせ、〇〇校の生徒だから」という思い込みはないだろうか?

 さまざまな教育理論は、人間は安全・安心な学習環境を整えてやると、積極的に、少なくとも、抵抗なしに学習に取り組むことを示している。そうであるならば、まず教室の環境として、互いに支え合う集団を作っていくことが、第一になればよいと思う。

 ところが、どうしても初任者は、「今日のこの授業をどのように乗り越えようか」という発想をしてしまう。しかも、高校、大学とそれなりの成績をとり、「選ばれて」教師になった、という自覚の強い初任者ほど、「自分が」授業を失敗したらどうしよう、という発想に陥ってしまう。まさに、結果を褒められて育った生徒は、簡単な問題を選択したがる(挑戦しようとする意識が低くなる)という傾向である。

 そこでは、「生徒が育つ環境を作る」という発想が抜け落ちる。そして、「なるべくたくさんの生徒が結果を得るためには、目標を下げればよい」という発想に行きつく。もちろん、学習指導要領に示された内容は、いかようにも理屈づけていく。

 「生徒のため」を前面に押し出しながら、実は、「できる自分」と思わせることが、第一になってしまう。どうしても、自分が他者からどう評価されるかに、重心が移ってしまう。

 コルトハーヘンは、こうした傾向の実習生を「外的志向」のある実習生と呼び、すぐに省察的な学びへ導くのではなく、少しづつ、そちらへ近づけることを提案している。まずは、「外的志向」の強い実習生を褒めることから始めるよう示唆している。

 私が、ある初任者について、この傾向を明確に感じたのは、初任研が始まって3か月を過ぎたあたりからだった。

 思えば、同僚の先生の協力を得ながら、「私の琴線に触れた先生」のエクササイズを行った時に少しの違和感を覚えたのだが、私は深く考えることもなかった。そのため、この違和を自分の中で見過ごすことになってしまった。

 このエクササイズでは、多くの先生方は、小中学校のころの先生を引き合いに出し、人生の転機や心構えのような形で表現するのだが、この初任者は、「大学の教材研究法の先生」を挙げた。しかも、その「語り口」が最も琴線に触れたというのである。自分の生き方やあり方を振り返るものではないところが、異色だった。

 もしかしたら、先輩の先生に囲まれて(プレッシャーで)自己開示できなかったのかなという感想も持ったが、私の中では、こういうこともあるのだという思いであった。

 過去に受けた授業を語ることは、自分の今の行く末を語ることに近い。目指すべき理想を

示しているように思う。だから、教師は「教えられたようにしか教えられない」のである。しかし、今の理想が変われば、つまり、授業に対するゲシュタルトの変換が起これば、過去の授業への想いも変わってくるだろうと思っている。

 初任者が示した授業の像は、強烈な教師主導の授業であったことに気付くべきだった。しかも、そこで授業を受けている「主体」は、教師の話を「受け止めている」だけだったのに。

 その後、示範授業と初任者の授業の比較から学べること、授業の省察、特にぎt織の生徒の学習に焦点を絞っての省察などを繰り返したが、どうしても、教師主導の授業づくりの傾向から抜け出せないように感じていた。

 例えば、授業の振り返りによって、「生徒に学習を任せる」という認識を得て、次の時間に実践したとすると、特定の生徒に長時間かかりきりになる。あるいは、このときに、生徒が安心して学習に取り組む環境づくりは無視してしまう。作文の課題が200字の作文を完成させることなのだが、それぞれの生徒の進度を無視して、ともかく、何時間もかけて先生の望む表現に、すべての生徒の「作品」を近づけさせる。授業の省察の場面になると、生徒の行為や、教師の行為への振り返りは、ほとんどが、自分に力がないから、自分が気づかなかったから、という「反省」になってしまい、本質的な気づきに至らない、などの傾向が起きてきた。

 これらのことが、初任者が「外的傾向」が強いことからきているということに、思い至るのに、3か月かかってしまった。

 コルトハーヘンは、まず、ほめることから始め、手順や指導法を具体的に示すことによって、省察へ至れるよう育てていくことを提言していた。

 このことに、私自身が挑戦していかなければと思った。

 ある日の授業の振り返りで、「このような手順で取り組んでみてはどうでしょう」という提案をした(申し訳ありませんが、手順の詳細は省略します。)。

 その次の時間で、初任者は手順通りの授業をして、確かな手ごたえを感じたようだった。私は、振り返りで、手ごたえのあったことを大いに称賛した。

 これを、何度か繰り返すと、初任者は「こうすればよいのではないか」という発言をするようになってきた。まだ、外面的なことに集中はしているようだが、振り返りの芽は出てきているように感じた。

 それに伴い、「目標設定を下げる」傾向は薄れていった。

 さて、「省察」へあと一歩である。