初任研中学校国語現場からの報告(その14) 支援員の立場で「省察」を試みる

 初任者が「省察」を身につけつつあるとき、「省察」をもう一歩進めさせたいと、私は思うようになった。一度、省察メタ認知できるようなことができればよいと考えたのだ。

学級の中の「特別に支援を要する生徒」と学校から認定(?)されている生徒がいた。この生徒には、「学習支援員」が貼り付けになっている。

今まで初任研指導を担当したすべての学校で、同様のことが起き、同様の振り返りが起こってくる。ほとんど例外がないので、面白い現象だなと思っている。

 この対象の生徒をSさんとしよう。

 ある日の授業の振り返りで、初任が、このSさんの手いたずらが気になったとする。この生徒には、支援員さんが貼りついているので、初任者が「支援員さんの立場で省察してみる」ということを思いついた。

 

1)支援員さんは、Sさんにワークシートの作業をさせたい。

2)そこで、声掛けをした。具体的な指示をして「こうやるんだよ」と働きかけた。

3)支援員さんは、Sさんはみんなに行動を合わせるべきだと考えていた。

4)支援員さんは、Sさんの行動を「もどかしい」と感じ、イライラしていたに違いない。

 

 客観的にも見ることができる分、以前の省察よりすらすらと出てきたように思う。4)のその時の感情を振り返る際に、初任者自身の「あせり」も重なっているように思えた。

 次に、Sさんについて質問した。

 

5)(学習課題についての)情報をタブレットから得ようとしていたが、うまく進まない。

6)手いたずらを始めた。

7)Sさんは成果を出したいと考えていた。

8)焦る気持ちが出てきて、声掛けにより自分のペースを乱されたくないとも感じた。

 

初任者は、生徒の感情と支援員の感情のズレに気づいた。それは、教師としての初任者と生徒としてのSさんの感情のズレでもあった。

 私が、ズレを指摘するまでもなく、このズレを改善するためには、どうしたらよいかを初任者は考え始めた。

 この際に、私は、当時の教室の状況に目を向けさせたいと考えた。それは、学習集団の中で、Sさんの行動が起きているのであり、決して個別学習の中で起きているわけではないからである。協同学習の中で起きているからこそ、学習集団の中での関係性を追求することなしに、本質が見えなくなると考えたからだ。単に、S君への技術的な「対応の仕方」で終わらせたくなかったのである。

 そこで、Sさんの周囲にいた生徒の様子に注目させた。

 

9)Sさんと支援員さんのやり取りの際に、Sさんに話しかけようとしていた生徒(Yさんとする)がいた。しかし、このやり取りが時間がかかりそうだと思ったのか、その場を離れた。(Yさんは、協同的な学習の場面では、よくSさんと一緒に課題を解こうとする姿が見られていた。)なお、支援員さんの声掛けでは、課題へのとりかかりは見えなかった。

10)支援員さんが離れるタイミングを見計らって、Kさんがやってきた。Kさんの声掛けに、Sさんは素直に応じ、課題についての話し合いを始めた。

 

 9)と10)の状況から、初任者は、YさんとKさんによるSさんへの支援を固定化することを考えたようである。 

 しかし、Sさん(「手いたずら」ではなく、学習への「取り組み」)を気にしていたのは、YさんやKさんだけではなく、学級の中にたくさんいたのだ。

 この集団としての、学習への取り組みやSさんとの関係づくりを、より顕在化させるのが、実は遠いようで、もっとも近いズレの解消のように思えた。

 たとえば、今回のズレを個別の生徒と個別の大人の関係の改善に求めたとしたら、単なる言葉がけの工夫に陥るように思える。そして、そのような「技術」を個別の大人に強いることは、支援員さんの「善意」を活かしはしないだろう(逆に、傷つけるといってよい)。

 また、YさんやKさんにSさんとの関係を強いることは、新たなマル・トリートメントを作り出すことになるだろう。

 しかし、集団の中にある多くの善意を活かせるようになれば、Sさんにとっても、抵抗が少なく(Kさんとの関わりのように)、また、周囲の生徒にとっても遠慮なく(YさんやKさんのように)、Sさんとかかわることができるだろう。また、そのような、集団の働きがあれば、支援員さんも焦ることなく、Sさんとの関わることができるであろう。

 初任者は、二つの改善策を考えた。一つ目は、目標設定の際に、集団としての行動目標を示すことである。それは、より多くの生徒同士の関わり促すことである。二つ目は、支援員さんと初任者が、ともに集団の成長を意識した声掛けについて打ち合わせの機会を持つことである。

 二つの解決策に共通するのは、「勇気づけ」である。