初任研中学校国語現場からの報告(その13) 教師の意図、生徒の意図

 初任研の校内授業研修も9月を過ぎることから、校内の授業研究会の中で、初任者の授業を検討する機会が出てくる。この際に「指導案」を提出するのだが、この作成の際に常に気になってしまうのが、「本時の学習過程(あるいは指導過程)」と言われる部分の、「教師の(指導者の)働きかけ」と「生徒の反応」、あるいはこの二つを合わせた「指導上の留意点」と言われるところである。

 たとえば、次のような記述になることが多い。

 教師の働きかけ「〇〇という方法で生徒に働きかける」

 生徒の反応「△△に取り組む。」

 この場合、教師の「正常な」働きかけがあれば、生徒は「正常に」動くだろう、という記述である。

 少し、詳しくなると、「正常な」反応からこぼれる反応の例を挙げ、それに対する対処をさらに詳しく記述するということになる。あくまでも、教師の働きかけの「意図」に沿って、生徒は反応する(あるいは、反応「しなければならない」)という記述である。

 しかし、教師がある意図をもって働きかけたときに、生徒もある意図をもって反応するというのは、心理学的な視点を導入するまでもなく当然のように思われます。

 すると、指導案の記述において既に、教師の意図と生徒の意図のずれが起こる可能性を含んでいるわけです。

 授業の事後検討会では、教師の意図通りに生徒が反応しなかったことについて、延々と議論がなされることは珍しくありません。そこでは、「生徒の意図」については、全く語れず、教師の意図がより良く実現されるための「方策」や「技法」が列挙されたりするわけです。

 しかし、指導案の形式自体がそういうものなので、これをどうこうすることで授業検討の質を変えることは考えない方がよいと思います。

 おそらく、多くの先生方も感じているように、指導案そのものよりも、その場での生徒の反応に興味がわくことの方が多いように思うのです。それならば、指導案の形式に縛られて「生徒の意図」を見逃す検討会にするよりも、教師と生徒の「意図のすれ違い」や「意図の一致」について授業検討した方が面白いし、授業を提供してくれた先生や、授業を参観した先生の得になる気がします。

 初任研の授業研修でも、このような場面をつくりたいと考えています。

 ある授業で、協同的な学習を組んだ際に、生徒のRさんが最後まで残ってしまったことを、初任者の先生は問題にしました。

 

1)何人かの生徒はRさんの支援を続けていたが、初任者は全員(なるべく多くの生徒)がRさんに関わってほしかった。

2)そこで、授業の振り返りの際に、そのことに触れて、全員の協力を要請した。

3)初任者は、全員が関わることが大切だと考えている。

4)そこから考えると、周囲の生徒の行動は良くないと感じた。

 

 通常の授業検討会なら、この自評に沿って、生徒が望ましい行為をする支援のあり方について、具体的な技法の検討や教師個々の体験からくる方策について意見交換がなされたことでしょう。

 初任研での私は、初任者に次のような投げかけをしました。

 では、生徒は「どんなことを意図して、どんな行動をしたのでしょう。そして、どう考えて、どんな感情を抱いたと思いますか?」

 初任者の反応は

1)自分たちも助けなくてはいけない、ということは分かっている。

2)Rさんに関わっている生徒がいるので、その人たちに任せた。

3)関わっている人たちが何とかしてくれと考えていた。

4)関わらなくてはいけないと感じながら。

 

 通常の検討会であれば、初任者の「周囲の生徒」は「よくない」という感情は残されたままになるはずです。つまり、教塩と生徒のわだかまりを残したり、違和感を大きくしたりという結末を迎えるはずです。これだけ、具体的な指導をしたのに、初任者の授業はなかなか改善しないとか、初任者は初任者で、これだけ具体的な手立てをしても生徒の状況は改善しない、私はなんて力がないんだということになっていくでしょう。

 しかし、生徒の意図や感情を理解していくことで、初任者は、授業の流れを教師の意図に引き付けようとしていくあまり、生徒の行動の意図を見誤っているとこに気づきます。

 ここからの改善は、生徒の行動の意図を明確にとらえて、生徒の行動を励ますことにつながっていくでしょう。

 この気づきの後での、具体的方策の例の提示は、初任者に入っていったように思えます。