どうしても、学校の中に教師教育学の素養を持つ先生が必要だ  初任研中学校国語現場からの報告(その15)

ある日「先輩の先生の中に、生徒の前に出過ぎる先生がいて、気になる。」という相談を受けた。

基本的には、その先生の行動が初任者の授業や、初任者と生徒の関わりに影響を与えることはない、と伝えた。

一方で、初任者が、「生徒を信頼すること」に明確な手ごたえを得ていることに、成長を感じることでもあった。

私が「危うい」と感じるのは、初任者が「〇〇でなければならない」という方向に思考を固めてしまうことだ。

上述の初任者とは別の初任者が、指導主事訪問の授業提供を行うことになった。

しかも、指導主事訪問の通例に倣い、共同実施という形である。初任者の指導案を国語科や社会科や英語科などの先生方がチームを組んで作るというものである。

ここで、多くの先輩教師から出てくるのは、「授業はこうしなければならない」という思い込みの発言のようであった。

ある場合は、この教材では、このような指導をすべきだ、という主張である。その多くは、指導案に未熟ながらも記述された「生徒の実態」や「初任者の指導の意図」を全く無視したものになる。言い換えると「わたくしの過去の経験ではこうなるのがよい」という主張の域を出ないものになる。それならば、初任者が経験した教室の事実はどこへ行くのだろうか?

また、こうした指導法がある、こうした発問がある、という具体策の際限ない提示になることもある。

では、初任者が提示した「〇〇という方法」や「〇〇という発問」は、その具体策とどう違うのだろうか?

くだんの初任者は、何人かの先輩教師(国語科や社会科などの「教科群」の先生方)との「指導案検討会」で、その案は、根こそぎ覆され、全て書き直し指導を受けた。しかも、先輩教師のやっている授業方法でやるようにと、学習過程も書き直しを命じられた。(私は、このような学習方法でなければだめだ、学習レベルも意欲も生活環境も違う生徒に、一律に方法を押し付ける学習指導と被ってしまった。)

私は、後日、その話を聞き、先輩教師の出した案と初任者の書いた指導案を見比べて、学習指導要領に沿った記述ができない、という、初任者の記述の未熟さだと感じた。今どきの言い回しだと「リテラシー」の未熟さである。(二つの違いを画像にして、文章の最後に提示します。)

しかし、多くの先輩教師は「授業技術」の未熟さと捉えたのであろう。

そこで、私は「指導案検討会」の中心であったろう中堅教員の先生方と話せる機会を持ち、指導案作成にあたっての初任者の記述の未熟さが、先輩教員の混乱の原因であり、学習指導要領や学校の年間指導計画と齟齬をもたらす授業を計画しているのではないことを説明した。

何とか納得していただき、初任者の授業は、当初初任者が計画したものと基本線を崩さず、実施できることになった。

 

私が、ここで問題にしたいのは、次の点である。

1 (初任者の)指導案を検討する時、その先生が何を意図しているかを明確にすること。それは、初任者の状況は様々であるため、「リフレクションのための8つの質問」のような、その指導案の状況や背景を理解する手立てを理解している(つまり教師教育学の素養のある)先生が、検討会の中に必ず一人以上はいること。

 ただし、「学習する学校」(ピーター・M・センゲ)では、「推論の階段」という方策を提示して、教師教育学的なアプローチとは別の方法を提示している。こうした研修を受けている先生でもよい。

2 検討会に参加する先生方も、「教師は教えられたようにしか教えられない」というゲシュタルトのくびきを理解し、それぞれの持つ指導方法や授業技術を絶対的なものと捉えない、柔軟な思考を持つこと。

 少なくとも、目の前の子ども達は、10年前の子ども達とは違っているという感覚があるとよい。

 

この二つは、どうしても学校の中に(特に中堅教員)に、「教師教育学の素養を持つ先生」が必要であることを示しているように思う。

 

改定前

改定後