初任研中学校国語現場からの報告(その7)  省察

 

「教師になろうとする人は、教室における自身の行動にそのような個人的な関心が与えている影響を見極めるための省察能力を十分自在に扱えるようになっていなければならない。」「学びのプロセスのより感情的な側面の異議を理解することは、教師になろうとする人にとって非常に重要なのです。」(ともに『教師教育学』(F・コルトハーヘン)より引用)

 例えば、初任者の授業の振り返りから「(「生徒が課題解決に向き合っている状況では、」)生徒の思考を邪魔してはいけない。」という学びをしたとする。この時に、引用のようなことを、初任者も指導者も配慮しなければならないのだが、初任者の実践で、このことを機械的に状況に当てはめてしまい、学習の中での不適切な行動に、授業者が介入しないということが起こる。(例えば、話し合いっている相手に暴言を投げつける、など)

 指導者としては、「人間として、してはいけない行為ではないか?」と思うのだが、初任者は「生徒の思考を邪魔していけないから、動かなかった。」と答える。

 一見まっとうそうな返答であるが、指導者には、生徒を育てるという視点が欠けているように思える。「学びのプロセスの感情的な側面」や「個人的な関心(あるいは、無関心)が与えている影響を見極める」視点が欠けているといえる。

 ここで、指導者が初任者の学びのゲシュタルトを変える導きが不十分だったことに気づかされる。

 結局、初任者はAならばB、BならばC、という形で、「指導の技術」を当てはめればよいという考え方なのである。(それで、ある程度授業を流せるようにはなってくるだろうが、生徒の感情の問題を放置して、マルトリートメントの状態に落とし込むことは必至のように思われる。)この土台を崩さないことには、「チョーク&トーク」の授業から抜け出せないだろうさえと考える。暗い気持ちになる。

 生徒の学習上の悩みや、学習にあたっての困難は、実は「すべての悩みは人間関係の悩みなのだ」というアドラー心理学の言葉そのものなのであるが、「教科指導の手立て」を志向する初任者には見えてこない部分なのである。

 「知識として」安全・安心な集団の中でこそ生徒は自主的な学習ができることを示した。示範授業で、「映像として」初任者に体感してもらった。しかし、初任者には腑に落ちないでいるのである。

 コルトハーヘン氏の考え方に「玉ねぎモデル」というものがあった。初任者自身の「コア・クオリティ」に、初任者自身が気づかないと、そこをリフレクションできないといけないのである。玉ねぎの皮を一枚一枚剥くように、初任者とのリフレクションをつづける必要があるのだろう。これが、一対一の校内初任研制度のつらいところである。

 さて、「技術」の機械的適用に、受験での「解答技法」のにおいを、私は感じてしまった。産業化時代の学校教育への過度の適応をした初任者が、現場に流れ込んできているのかもしれないという思いが杞憂でないことを願っている。