初任研中学校国語現場からの報告(その11) 生徒の呼称

 夏休みを終え、授業が再開された。

 私が参観した授業で、生徒の呼称が気になって、指摘した。

それに対する初任者の返答は、次のような内容だった。

「さん」付けで呼ばれていると、自分が尊重されている感じなる。前の学校(関東方面の某大学の付属中)のベテランの先生方はみんな「さん」付けで呼んでいた。しかし、こちらの学校では、自分が「さん」付けをしているのが、恥ずかしくなる雰囲気なのだ。

期せずして「『教員のためのリフレクション・ワークブック』の中から、教員のコンピテンシーの項目を一つ選んで、最低十数分、できれば数十分じっくりとディスカッションしてみましょう。」という、「教師の育て方」のワークのような話になってしまった。

初任者には、生徒を尊重し育てていきたいという願いがあるのに、それを実行できないでいる。

それを実行する勇気を応援しなければならないだろうと考えた。

この状況は、言ってしまえば「その学校の文化」からの同調圧力なのだろうが、それを初任ひとりが組織にたてつくような形で表現しても、「文化」自体は変わらないだろうし、そこに無駄なエネルギーを費やす必要もないだろう。(これは、「教師の育て方」のワークへの提言で述べたように、大学の教師教育者が学校に入る機会を得て、中堅教員を教師教育者と育てながら、初任者を教師として育てていく、というシステムの導入が何よりだと考えている。)

そこで、私は、自分の経験を語りながら、初任者の生徒を尊重する思いを後押ししようという意図の発言をした。

「ともかく学校の中に、一人でも自分たち生徒を尊重してくれた先生がいた、というだけでもいいのではないか。」という内容である。

そして、自分自身が「さん」付けを徹底しているつもりでも、時々、男子を「きうん」付けすることがあって、自分ながら古い文化を払しょくできないでいるな、と感じるという話をした。

「さん」付けか「呼び捨て」かの単純なことであるが、人権の尊重や、ヒドゥン・カリキュラムの問題や、生徒や初任者への勇気づけの問題を含み、私自身が考えさせられた問題であ

初任研中学校国語現場からの報告(その10)

昨年、初任研(1年目研)で授業研修を担当した先生が、今年2年目研(2年目は初任者が自力で研修を進めます)で、MLA理論に基づいた授業研修で授業を公開して、大学の先生からコンサルテーションを受けたとのこと。「MLAの観点から、素晴らしい授業だった。」と喜ばれたとの報告を受けました。昨年担当した私としてもうれしい思いでした。私に対する初任者からのお礼の言葉もあり、ありがたく感じました。それ以上に、私は、この先生の成長を強く感じました。

「MLA理論とは、日本版の包括的生徒指導モデルとのことです。次の4本の柱からなります。①個人の成長に焦点を当てたSEL(Social and Emotional Learning:対人関係能力育成)②PBIS(Positive Behavioral Interventions and Supports:ポジティブな行動介入と支援)③集団の成長に焦点を当てた協同学習 ④ピア・サポート

このMLA理論に基づく、学校づくりの研究は、数年前から地教委の事業として進めてきたものです。しかし、現場の先生方のこの事業に対する評判は、あまり芳しいものではありません。

 教育学の理論を現場の先生に、外部注入すれば、良い授業が成立するだろうという考え方で、MLA理論が導入されているため、この「新しい理論?」に対して(感情面で抵抗を示すという)「学校の影響力が支配的」となり、現場の実践に力が入らない状態になってきたと感じています。たとえば、形式的にPBIS的な掲示物を作る、とか、SELの授業をトーク&チョーク式の一問一答の授業でつくるとか……で、実践を済ます、というように。

 現場に教育理論を適応させるときに、教師教育学的な視点がないために、「理論と実践の乖離」を招くという状況になってしまっているのです。

 コルトハーヘン「教師教育学」に「人が変わらないようにする最善の方法は、その人を変えようと試みることです」(p.63)とありますが、まさに、その状態を示していたのだと思います。MLA理論は至極まっとうに、学校の環境を児童生徒が「安心・安全に」過ごし、学習に集中できる環境を提供するものだと思います。私は、とてもしっくりする考え方だなと思っていたので、この乖離を残念に思っていました。

 地教委はこの状況を改善しようとして、必死になって研修会(伝講会)を開いたりしていました。つまり、知識が増えれば改善するだろうという考え方です。外部注入をさらに強くしていったのです。効果はそれほど表れないだろうというのは、「教師教育学」の視点からも明らかかと思えました。

 だから、私は、教師教育学の考えを導入すれば、この状況は改善されるのはないかと考えています。

例えばSELの授業を組む時に、教師がそれまでの自分の授業を「省察する」機会を与えられていたら、授業の質はずいぶん変わるのではないかと思うのです。それは、集団の成長に焦点を当てた協働学習や児童・生徒同士の「ピア・サポート」、そしてPBISに大きな影響を与えたことでしょう。(何せ「ピア・サポート」は教師教育学の手法の一つですから。何よりも教員同士に施せると効果が絶大でしょう。)

 さて、前述した2年目教師は、MLA理論に基づいた実践を4つの面にわたって、事細かに実践したわけではありません。1年目にはMLA理論でいう「集団の成長に焦点を当てた協同学習」を一生懸命に組んでいただけなのでした。

 それは、初任者が実際の授業の中で気になる生徒への対応や、生徒が自主的に学習に取り組む工夫などを検討する中で出てきたものです。「その場しのぎ」の技法、「技術」に頼らず、本質的な問題は何かを探り、より適切な手段や理論を学ぶという、授業の「省察」を毎回繰り返した中から、つかんだものでした。

 いわば、「省察」による「らせん的な授業改善」によりつかんだものです。「省察」が、期せずして「集団の成長に焦点を当てた協同学習」を導いたのです。初任者の「省察」に基づく「らせん的な授業改善」がMLA理論と合致しただけなのです。

そこから、「見える化」するための、そして生徒集団の人間関係をより良いものにするPBISや、協働学習を支える「ピア・サポート」や、児童・成長の成長を促す基盤としてのSELにつながるのはそれほど難しいことではありません。

つまり、理論と実践がしっかり融合します。

 ですから、先生方の内発的な開発こそが、「新しい理論?」導入のかなめだと思うのです。それは、教師教育学の考え方が重要になってくると思うのです。

(MLA理論と、「省察」による教師の授業改善には、「一致の原則」があてはまりますよね。生徒が学習するよう指導することと、教師が生徒に学習させる方法を指導者が教師に学習させること。)

初任研中学校国語現場からの報告(その9) 教科での学習集団づくりと学級担任の集団づくりの齟齬

 

教科での学習集団づくりと学級担任の集団づくりの齟齬を感じたので報告する。
 根本的には、学校の風土づくりにつながるのだが、初任者を育てる教師教育をてこにして、学校の風土を変えることにつながるのではないかと考え、投稿します。
 昨年は、学年単学級の小規模校で、しかも各校にたった一人の国語科、そしてそれぞれが学級担任という存在だった。そのため、教科経営と学級経営がつながりやすく、集団づくりに有効に働いた。
 本年度の2校は、教科担任だけで、学級担任を持っていない初任者である。しかも、学年は複数学級になっている。そのためか、教科での学習集団づくりと学級経営での集団づくりがずれてくる感覚を初任者はもってしまう。
 特に、学級担任が競争的な(協力的でない。産業社会的な)学級づくりを強力に推し進めている学級にぶつかると、初任者は困惑することになる。集団の闇(?――一部の生徒がバカにされる雰囲気がある、とか、他者とのかかわりを閉ざすようなhグループが存在し、それが学級の雰囲気を決定しているとか……)の部分が初任者の授業で明確に見えるのである。
 例えば、初任者にとって気になる生徒がいた、発達障害を疑われる生徒、小学校時に転入した生徒、作業の遅い生徒等である。
 当初、初任者は、授業の中で、他の生徒がそうした生徒を馬鹿にしたり、非難したりする雰囲気を感じ取ったという。
 しかし、初任研を通しての授業改善により、かなりの変化を感じたという。
 初任者の授業改善は、主に、他者と協力して学習課題を解決する学習集団づくりを通して行われた。これを通して、初任者は、国語の授業の中で、こうした傾向は見えなくなってきたと感じてきた。協力的な雰囲気の醸成が、3人への対応にも表れてきたと感じていた。
 ところが、学級担任が不在の際にピンチヒッターで入った学級活動の中で、授業では感じられなくなっていた「バカにする」雰囲気を感じたという。
 初任者には、人権感覚に基づいた集団づくりにより、安心できる場での学習を確保することで、個々の人間関係に少しづつ影響を及ぼしていくことを第一に考え行くように、初任研担当教員は支援していた。個々の場合の望ましい対応についても助言はするが、これはあくまでも一時的なもので、教科担当の立場からの学習集団づくりを行うことが、何よりの早道なのだと助言していた。
 一方、競争的な学級集団づくりの中で、学級活動を行ってきた教室では、この教科での姿からかけ離れた集団の姿が見られたのであった。
 こうした、学級の集団づくりが是認されるのは、学校の風土の問題が大きいと思う。おそらく、学校の風土のうえで決定的な要素のなっているのは、中堅教員層のあり方だろうと思われる。この層は、おそらく競争的な集団づくりの真っただ中で育ったのであろう(自分の現役時代の経験を振り返ると、その思いを強くする。)。だから、競争的な学級づくりのあり方に無自覚なままでいることは、学校の風土が競争的なままでいることになる。
 だからこそ、中堅層の教員が教師教育学の考え方を理解し、身に着けていくことが非常に重要になると思われる。
 担当教員が、初任者に対して行ったように、中堅教員に対しても、「私の琴線にふれた先生」や「生徒の15年後、30年後」などのグループ・ワークを行うだけでも、ずいぶん違ってくるように思われる。

 

初任研中学校国語現場からの報告(その7)  省察

 

「教師になろうとする人は、教室における自身の行動にそのような個人的な関心が与えている影響を見極めるための省察能力を十分自在に扱えるようになっていなければならない。」「学びのプロセスのより感情的な側面の異議を理解することは、教師になろうとする人にとって非常に重要なのです。」(ともに『教師教育学』(F・コルトハーヘン)より引用)

 例えば、初任者の授業の振り返りから「(「生徒が課題解決に向き合っている状況では、」)生徒の思考を邪魔してはいけない。」という学びをしたとする。この時に、引用のようなことを、初任者も指導者も配慮しなければならないのだが、初任者の実践で、このことを機械的に状況に当てはめてしまい、学習の中での不適切な行動に、授業者が介入しないということが起こる。(例えば、話し合いっている相手に暴言を投げつける、など)

 指導者としては、「人間として、してはいけない行為ではないか?」と思うのだが、初任者は「生徒の思考を邪魔していけないから、動かなかった。」と答える。

 一見まっとうそうな返答であるが、指導者には、生徒を育てるという視点が欠けているように思える。「学びのプロセスの感情的な側面」や「個人的な関心(あるいは、無関心)が与えている影響を見極める」視点が欠けているといえる。

 ここで、指導者が初任者の学びのゲシュタルトを変える導きが不十分だったことに気づかされる。

 結局、初任者はAならばB、BならばC、という形で、「指導の技術」を当てはめればよいという考え方なのである。(それで、ある程度授業を流せるようにはなってくるだろうが、生徒の感情の問題を放置して、マルトリートメントの状態に落とし込むことは必至のように思われる。)この土台を崩さないことには、「チョーク&トーク」の授業から抜け出せないだろうさえと考える。暗い気持ちになる。

 生徒の学習上の悩みや、学習にあたっての困難は、実は「すべての悩みは人間関係の悩みなのだ」というアドラー心理学の言葉そのものなのであるが、「教科指導の手立て」を志向する初任者には見えてこない部分なのである。

 「知識として」安全・安心な集団の中でこそ生徒は自主的な学習ができることを示した。示範授業で、「映像として」初任者に体感してもらった。しかし、初任者には腑に落ちないでいるのである。

 コルトハーヘン氏の考え方に「玉ねぎモデル」というものがあった。初任者自身の「コア・クオリティ」に、初任者自身が気づかないと、そこをリフレクションできないといけないのである。玉ねぎの皮を一枚一枚剥くように、初任者とのリフレクションをつづける必要があるのだろう。これが、一対一の校内初任研制度のつらいところである。

 さて、「技術」の機械的適用に、受験での「解答技法」のにおいを、私は感じてしまった。産業化時代の学校教育への過度の適応をした初任者が、現場に流れ込んできているのかもしれないという思いが杞憂でないことを願っている。

 

初任研中学校国語現場からの報告(その8)  意図と行為のギャップを埋める

 「教師のためのリフレクション・ワークブック」では、「子どもに対する人権感覚をベースとした対人支援職としての専門性」を振り返る方策として、次の3つを上げている。

①どのような思考・行動が必要であるかという知識や認識を深める学習

②学生同士のコミュニケーションや現場実践の中で、明確化・意識化する経験や、他者から認識・指摘されたりする経験

③教師教育者から具体的課題を出し、直面化させる機会

 ①によって、知識・理解としてのアクティブ・ラーニングの授業実践の必要性が理解できている。

しかし、②は、現行制度である1対1での初任研という制約上、望みようがない(条件が整えば(整っても)、年に1,2回はできるかもしれないが…)。また、他者からの指摘も、多くの学校の実情(私が担当している初任者の学校でも例に漏れないと感じている)では、教師のパフォーマンスをいかに高めるかという視点からの指摘になる可能性が高い。つまり、「行為の振り返り」から、「本質的な諸相の気づき」をスルーして、「行為の選択肢の拡大」へ直結する可能性が高い。

そこで、③が必要になるが、指導者がこの「直面化」を、(産業時代的に?)強引に突きつけることをしたら、初任者は「足をすくめる」状態になるだろうことは、容易に察しがつく。

そこで、意識したのが、以下のフレーズである。

「意図と行為のギャップを埋める」

初任者は、「生徒に学習を任せる」授業、『学び合い』の授業を企図していた。

しかし、実際の授業行為は、その意図とは大きなギャップを生じてしまう。

たとえば、「生徒に任せる」ことを企図した際に、生徒が教師の望む「より良い」方向へ行くように意図して、ヒントを与えすぎる、説明をし過ぎる、学習の途中で教師が生徒の学習に介入する、などの行為によって、生徒の思考を麻痺させる。学習活動をストップさせる、という状況になる。

あるいは、「生徒に任せる」ことを意図するあまり、どうすればゴールになるか、どうすれば、学習目標委に達した生徒が全体の利益のために動けるような環境を整えるかの備えをおろそかにしてしまう、などがあげられる。

上記の二つは、「意図」と「行為」のギャップといっていいだろう。

こうした授業を振り返る際、省察のための8つの質問は、大きな武器となった。

たとえば、初任者はYさんという生徒がいたとする。この生徒に、課題を解く方法を聞きに来る生徒が何人かいた。初任者から「Yさんが、『人に教え』ながら、動けるようになるともっと良いと思っているのだが、学習への集中と教えるための立ち歩きのバランスが分からない」という、行為の振り返りがあった。

指導者は、個の振り返りを聞いて、初任者の「意図」と「行為」の間にギャップがあるのだという認識に至った。

指導者は、当初、授業へのゲシュタルトの変換が、初任者の頭の中でなされていないため、アクティブ・ラーニング様の授業の「型」や工夫に関する助言が、「入っていかない(=肉体化できない)」のだと思っていた。

しかし、8つの質問に則って、リフレクションをしてみると、「意図」と「行為」のギャップに初任者が苦しんでいることが分かった。

授業の考え方の変換は、初任者が「発見した」、「生徒に任せる」「学習の邪魔をしない」という言葉に集約されるのだが、この「意図」を実現させるための行為の選択肢が、教師主導型の(古い)授業観の中にしかなかったのである。

Yさんのような生徒が動ける(ここは、まだ「授業の中で活躍する生徒は固定的なものだ」という認識から抜け切れてはいないが、国語という学習で能力を発揮している生徒とらえている、初任者の「強み」を活かすことにした。)目安を付けられるように、誰が課題を達成し、誰がまだ達成していないのかを「可視化」するネームプレートを使用する。これにより、Yさんが支援すべき生徒が明確になっていく。(これは、指導者の示範授業でも行っていたことなのだが、初任者は授業の文脈の中で理化することができなかったようだ。)

「学級の一人も見捨てない」という学級が国語の課題に取り組む目的を明確にし、「全員が課題を達成する」という行動目標を明確にする。これにより、学習課題に含まれる学習目標の達成を目指す。そして、これは学級全員で課題に取り組んでいるという「感情の共有化」につながる。Yさんが活躍できるような環境になるだろう。(これも、示範授業で示していることだが…)

学習目標と、課題達成するまでの時間を「見える化」(明示)し、学習への見通しをできるだけ多くの生徒が持てるようにする。もちろん、Yさんのような生徒は、いち早く気づくだろう。これも、Yさんのような生徒が動ける環境を作ることになる。

そして、「教えるために動く生徒」「SOSを出す生徒」「SOSを出すのを察知して動く生徒」「課題を達成した生徒とまだの生徒をつなぐために動く生徒」、それぞれが「全員が課題を達成する」という目標へ向けて「合理的な」動きをしているのだと、Yさんをはじめ学級全体を勇気づけること、などを助言した。

指導者の感覚としては、初任者に「入った」と感じさせる「振り返り」であった。

初任研 中学校現場からの報告 その6

 授業をしている中で、教材にしている印刷物の裏側を見ている生徒がいて、学習に集中していないようで心配になったが、声をかける機会を失って、働きかけはしなかった、という振り返りがあった。

 いくつかの可能性が考えられるが、初任者は「生徒の思考の流れを切ってはいけない」と考えたとのことだった。その場の対応では、その行動は不適切であることを指摘するだけで十分だと思うのだが、そうは考えなかったようだ。これは、以前、初任者との中で私が語った「生徒の思考の流れを切らない」授業ということが、強烈に頭に残った結果かも知れない。

 課題への集中的な取り組みのための手立てとして説明したことが、あらゆる場面で適応できるもののように伝わったことを謝った。

 その後、初心者との振り返りの中で、生徒がそのような行動から離れるいくつかの可能性を話した。

 一つ目は、生徒に渡す教材に印刷のやれ紙を使うことで、課題とは無関係の興味関心を引き出していること。だから、裏紙を使わなければよいのである。大きな原則につなげるなら、準備をしっかりすることである。

 二つ目は、そのこと自体がそれほど大きな問題かということ。一瞬そのような行為があったとして、その後学習に集中したのであれば、大きな問題とは言えないだろう。課題に集中していったという過程の方が大切である。

 三つ目は、生徒自身が裏紙を使うことに疑問を持ったのではないかということ。そんな行為であるならば、そこで咎めなかったのは、逆に幸いであろう。そんな生徒の頭の中を想像できずに、一瞬の行為のみで善悪を判断したのでは、生徒の方がいい迷惑になる可能性が高い。そして、これも授業の準備をしっかりすることにつながる。学習に参加する生徒一人一人を思い浮かべて準備できるかどうかであろう。

 四つ目は、その生徒と初任者との相性の問題があるかもしれないということだったが、これは深く突っ込まなかった。同様なことが、同じ生徒に対して認識するようであれば、触れなければならないかなと思うが。ただし、私のスタンスとしては、学習課題に取り組む集団を作っていく中で、生徒同士に関係を作り上げることで改善するものだと考えている。おそらく、初任者の方で問題を作っているのである。

 初任者は、完璧を目指すあまり、状況によって変化すべきところを教条的に墨守していくことがある。生徒が学習に集中するために何を準備していったらよいかとか、その準備を超えたハプニングが起きたとき、生徒の学習の進展へどう持っていくかとかを、マニュアル的でなく、教条的でなく導いていくのは意外に難しいことかもしれないと思った。

技術以上に考え方ーー初任研現場からの報告(その5)

初任研中学校現場からの報告(その5)

   技術以上に考え方

 初任者もある程度の経験を積んだ先生も、『学び合い』などのアクティブ・ラーニングの考えに基づいた授業は、高度な教育指導の技能や技術が必要と思い込んでいる。これは、「教師は教えられたようにしか教えられない」という、授業観や学習観の変更がなされる前の状態だから起きてくることである。教師教育学に基づいた教員養成課程や教育実習を経てきていない初任者しか見ていないからかもしれないが、彼らは同調圧力に押されたように一様に教師主導の授業を行いたがる。気の利いた先生でも、授業の導入にゲームを取り入れる程度である。ベテランの先生の中途半端にアクティブ・ラーニング的な要素を取り入れた授業を見せられたりすると、なおさら「技量がなくてはできない」という思いを強くするのであろう。

 「教育技術の法則化運動」が華やかなりしころ教員の道に入った私も、「討論の授業」や「批評文を書く授業」は、一つ一つ指導の段階を踏んで、丁寧に説明と指示、発問を組み合わせて行うものだと考えていた。しかし、同世代の教員にはそれを軽々とこなす先生もいた。また、「法則化」とは、全く縁のない先生が、見事な学習者中心の、ほぼ一コマ生徒だけの学習を進める先生もいた。共通しているのは、「生徒を信頼する。」「生徒に任せる。」という姿勢であったのを、ここ数年で気づいた。

 要は、授業(学習)に対する指導観のパラダイム・シフトが前提なのだと思う。

 初任研の最初に1か月ぐらいで、「教師のリフレクション」のグループワークを修正したものを使うことで、アクティブ・ラーニングの授業へ向けた概念形成を図る。(本年度も含めて、5人に試みているが、初任者の特性により、速い遅いの違いはあっても、成功しているといえる。)

 この新しい授業の概念の定着は、ALACTサイクルに基づいた、「省察のための質問」を、初任者自身の授業の振り返りに使えるように支援したことが大きい。

 この「質問」を自らに課すことで、昨年から本年にかけての初任者には、2か月経過した時点で、次のような振り返りの傾向が出てきている。

1 生徒を信じること

 2 学習集団をつくる働きかけの必要

 3 教えることを我慢することの大切さ

1 については、「説明」や「指示」「発問」に代表される教師の指導言を、少なくしていこうという実践の振り返りから生まれてくる。

2 これは、過去にも述べたが、「気になる生徒への働きかけ」は、その集団の人間関係を変えていくことが必要なのだという省察である。

3 これは、生徒が学習への集中しているときの支援の在り方の省察から出てきた。

 授業の技術的な「改善」ではなく、学習や生徒の見方、考え方の変革だと私は思っている。