「クライシス・マネジメントの本質 本質行動学による3・11大川小学校事故の研究」(西條剛央山川出版社刊)を読んだ。

 一気に読んだ。素晴らしかった。

 これまで、僕は一歩間違えれば、僕のいた学校も3・11のときに、大川小学校のような悲劇が起きたかもしれない、という思いで過ごしてきた。西條氏は「なぜ、大川小学校だけが」という問いに、答えてくれているのだが、その答えは、逆に、やはり「一歩間違えれば…」という思いを強くさせた。学校や学級というシステムが変わらないと、ダメなのだ。

 そして、システムを変えられるのは、システムの中にいる人たちだ。就中、システムにいながらシステム外の扱いをされている子どもたちをいかにシステムの主体に育てと行くかがカギを握っている。

 (著作でも述べられている「プロとして子どもの命を守る責任」は大前提の上で、記述しています。)

 「第2章 あの日の校庭  ――構造化による概念、カテゴリーの生成」は、迫力があった。一つ一つ、手順を追って構造構成学、行動本質学に基づいて冷静に解析していくのだが、そこに挙げられた一次資料やその他のテクストは、読んでいる私にとっては、眼前に3・11の大川小学校の状況を提示されているようで、リアルタイムで現場に居合わせたような感覚に陥った。(3・11以前にお会いしたり、お話したりしたことのある先生が、6,7人、登場するせいかもしれないが、それが要因ではない。)

 特に、6年生の生徒の「津波ここまでくるから、ここにいたら全員死んでしまうから、だから山へ逃げましょう」という教師への訴えが取り上げられずにいる場面では、「なぜ、この叫びを、教師集団が取り上げられなかったのか?」という問いが頭の中を駆け巡った。この部分は、この本では「子どもに危機意識があったか、否か」という検証のために取り上げられているようである。しかし、僕にはこの場面が、日常の教師と子どもの関係が表れているように思えた。つまり、教師と子どものあいだのつながりが縦の関係だけでできている集団というイメージを受けた。この子どもの危機意識を共有できるか否かで、(希望的な観測になるが)その後の危機に対処する行動にも変化が出てきたような気がする。しかし、著作では、こうした集団の成り立ちについては触れていない。(そもそも、分析の対象外である。)

 学校は、子どもと教師が家庭や地域との関係のうえで成り立つ生きたシステムと考えれば、学校というシステムの中に子どもは明確に存在する。その子どもは、単に教授されるだけではなく、学習する存在である。子どもが先生の話を聞くだけの存在ではなく、先生とともに学習課題に取り組むことのできる存在である。そんなふうに、子どもも学校というシステムを生かす主体だと考えれば、子どもの危機意識をシステム全体で共有することも容易だったように思える。

 また、筆者は、(僕の大好きな)吉本隆明氏の「共同幻想論」や「マチウ書試論」(僕は吉本隆明の最高傑作だと思います。)を引いて、市教委や学校関係者の「共同幻想」を引き釣り出していたが、教室の中での教師と児童生徒の関係でいえば、筆者もまた教師が生徒に一方的に教授し教化するのが、教室の関係だという「共同幻想」にとらわれている気がした。(明記されていないので何とも言えませんが。)

 ここで、子どもの意見を受けとめることができるか、否かは、僕には日常の学習の「構造」自体が、一方的な教授や教化の関係だった結果なのではないかと思える。そして、この関係は宮城県の多くの学校で普通にみられる関係である。いまだに、圧倒的な数の学校や学級がこの関係である。

 その体制で、筆者が提言する生存教科をカリキュラムに導入したとしても、形骸化する恐れがある。なぜなら「組織の能力そのものが無能力の決定的要因になる」(クリステンセン)からだ。(なぜ、あんなに能力のある方がいっぱいいる〇〇なのに、新聞で叩かれたりすることになるのだろうか、と感じることは日々あります。)

 生存教科の導入とともに、子どもを学習の主体にできるシステムづくりをしていくのが必要だと感じた。

 

「クライシス・マネジメントの本質」感想補足

6年生の生徒の「津波ここまでくるから、ここにいたら全員死んでしまうから、だから山へ逃げましょう」という訴えが、次の文脈でとらえられていたら、と思うのです。

子どもの学びは、教室や学校という閉じられた空間だけで成立しているのではなく、遊びの中でも、家庭生活でも、そのほかの活動の中でも成立しているのだ、という構えがあれば、上記の子どもの訴えは、大きな学びの中から生まれたものだということが即座に理解できたのかもしれません。この子は、何度か裏山に上ったことがあり、その都度けがもなく登り切り、降りてきたに違いありません。その学びを、受け入れることができただろうに思うのです。

子どもを、学校の学びの中核に据え、さまざまな学びを教室の中に関連付けていくことが大切だと思います。

蛇足です。私が小学生のころ、もう55年以上前になりますが、小学校の近くに洞窟があり、その中に宝剣があるという話が、小学生たちのあいだで広がっていました。同級生の中には、近くのお寺にお墓のある南朝方の皇子と関係があると話す子もいました。つい数年前、くだんの小学校の近くの洞窟で、宝剣が「発見」されたというニュースがありました。

日常の学びが、学校や教室の中で生かされる環境であれば、この「発見」は、50年以上も早くなっただろうと思います。