初任研の授業検討会……課題にしたいこと→→初任研中学校国語の現場からの報告 その17

 前回は、初任研の成果らしきものをいくつか述べた。

 今回は、初任研の担当者以外が初任者の授業にコミットする場である、初任研の授業検討会について、雑感を述べたい。

 ある初任研の授業検討会では「所期の目標が達成されたかどうか」「研究の手立てにより有効に近づくためにはどうするか」などの2本立てで行われた。

 流れとしては、①本時の学習目標が達成されたかどうか→②達成されたとしたら何が要因だったか、達成されなかったとしたら、それを改善する方策はどのようなものがあるか、ということになるだろう。

 その話し合いでは、①の段階で、参加者それぞれの主観での目標の達成、未達成が語られた。②の段階では、それぞれの持つ技法や技術が公開されやり取りされていた。

 初任者の授業には、グループを何人組と固定せず(6人グループとか、4人グループとか、3人グループとかに固定しないで)、それぞれが出した関心別に人数にばらつきがあっても、そのままグループにする(この授業では、6人グループから3人グループまであった)という「提案」があったのだが、そこはスルーされた。

そして、グループから出された様々な意見を整理するために、次のような方策が提案された。①それぞれのグループが話し合いに入っている状態で、先生が見つけたいい意見を、学級全体に返す。「〇〇グループで、こんないい意見があったよ」②意見を整理するには、前もって生徒の反応を予想した方がよい。そのために指導案の生徒の反応の欄に「先生がもっと詳しく考えて」記述すべきだ。③話し合いをスムーズにするために、「先生が指示して」司会や記録などの役割分担をしっかりするべきだ。④生徒がタブレットばかり見ていたので、話し合いがなり立っていない(ように見えた)。タブレットをなしにして模造紙でよかったのでは、など。(実際はもう少し、出たのですが、とりあえず過去のノートにメモが残っているものだけ)

予想通りというか、教師のパフォーマンスをいかに上げるかに意見が偏っていたように思う。

初任者の意図に触れる前に、多少脱線するが、①~④に関して、コメントしたい。

まず、①について。初任者は35分という時間を指定して、生徒が話し合いに集中することを求めた。しかし、教師から見た「いい意見」を全体に返すことを繰り返していると、生徒は、「先生の発言」を待って考えを記述することにならないか。生徒の思考の深まりではなく、「先生の思考の深まり」を授業で行うことになる。また、思考の最中の声掛けは、思考の中断を招く。

「意見の整理」に関する②の見解は、教師が記述した方向に生徒の反応を持っていこうとするということが起きやすい。自分の経験からも、他の先生の指導案を見てきた感覚からもそう言える。特に、教えることの経験の少ない教師であればあるほどそうなりやすいように思える。

「グループ内での役割分担」については、どのように役割を与えても、話し合いが深まるためには、その場を仕切ることのできる生徒の活躍が欠かせない。仕切る生徒とフォローする生徒の関係が良好な時だけ効率的な話し合いができる。役割分担をすれば、話し合いが効率化するというのは誤解である。

最後の「タブレットの使用の是非」に関する④の見解は、あれかこれかの問題ではない。話し合いの結果や経過を示す手段は、教師が規制すべきではないということなのである。決して、こうしなければならないということではない。模造紙にまとめる手もある、もちろんタブレットを使う手もある。ホワイボード・ミーティングの手もある、バズセッションの手もある。生徒が選択できる手段を多数用意しておくということが必要であろう。タブレットも模造紙も使っても使わなくてもいいのである。

さて、では、初心者の意図に触れよう。

初任研の授業検討会の後、初任者が「前時での躓き」について相談してきた。

初任者は、本時での「グループ割りの失敗」を感じており、その要因を前時の躓きにあると感じていたようだ。

本時の授業の意図は、興味関心別にグループ編成することで、生徒に話しやすい雰囲気をつくっていくことにあったという。そこで、8人が集中したグループについて、強引に4人4人に分けたということである。

当初の考えであれば、8人のグループを割る際に、5人3人になっても、6人2人になってもよいように構えていればよかったのだが、4人4人に割ることに「先生が」こだわった結果、生徒の間に違和感が生まれたようだ。

初任者は、この要因を前時の躓きに求めた。前時では、教室を移動する際、「思いやりを持って、速やかに、静かに」移動するための作戦を立てさせから、移動させた。この際に、移動先で男女真っ二つに分かれて並んだという。

この感覚を残したまま、本時に臨んだためグループ分けの際の気まずさが出てきたのだという。

この初任者の認識はとても貴重なように思う。

初任者は、男女差を意識しすぎる「未成熟な集団」(なんと、3年生の学級でした)への働きかけのあり方に思いが至ったのである。

8人グループを4人4人に分けた際の、そしてその後の学習の進みについて、気づきを持ったのである。

このことは、前回述べた「リフレクション」の繰り返しにより生まれたものであるといえる。

技法的には、この時間にどうこうするを考えるより(生徒が学習に向かわない、向かえない状態ができているのだから、どのような技法も効果が生まれない)、前時の移動の段階で作戦を立てなおさせ、再度、挑戦させるということで対応できると思う。

しかし、その対応策以上に、集団の質を餘色よい状態に持っていくためにどうするかを考えている初任者に成長を感じた。

初任研中学校国語の現場からの報告 その18  初任研を担当する中堅教員に興味を持ってもらった

上記のように感じるのは、初任研の教科指導が1年のサイクルを終える頃である。

昨年度も、今年度もそうだった。1年目を終えそうな頃、他の学校では、途中で初任汚染性が退職したとか、授業力が延びないとか、学級の経営に四苦八苦しているとかの情報が入ってくる。

そのような中で、初任者が安定した授業を展開していたり、提案のある指導案を作っていたりすることで、初任者の指導をどのようにしてきたのかに、関心が向くようになる。

そこで、初めて、「教師教育学」の基づく初任者の指導を、初任研の担当者に紹介する機会が出てくる。

私は、年度の初めに職員評価を他の現役の先生方と同様提出させられる。講師という身分でである。この時に、ついでに担当者や管理職の先生に、こうした方針でやるということを説明するのだが、あまり理解してもらえないようである。

ほぼ1年して、初任者の振り返りを通して成長が明確になるとともに、担当の先生がまず興味を持つということになる。

しかし、この時期が年度の終わりで、私はその学校を去らねばならず、関係の先生に教師教育学関係の著作物を紹介して終わってしまう。

もう少し早い段階から、興味を抱いてもらえれば、一緒に初任者の授業づくりや学級集団づくり、そして、何よりも「教えることを教える」という業務に一緒に関われるのにな、と思うのだが……。私のプレゼンテーション能力のなさも加わって、年度のはじめの段階では難しいのである。

私は、まず初任者の「教えること」へのゲシュタルトの再構築から入る。

つまり、初任者が小中高を通して学んできた授業の形のほとんどは工業化時代の遺物なのだ、ソサエティ5.0に適合した学びを構築していかないと、生徒に過去の教養を身に付けさせたまま、未来へ放り出す羽目になる、ということを意識させ、生徒の学習を新しい指導要領の流れで成立させるには、どうしたらよいかを考えていくように、導く、ということである。

これには、意外に時間がかかる。「教師は教えられたようにしか教えられない」という壁を、初任者も私も乗り越えるには、意外に時間がかかる。

大きな変化も外に現れないこの時期を過ごさなければならず、初任研の担当教員は成長が見られないことへのいら立ちとか、焦りのようなものも感じられる。

しかし、この時期を通過しないと、初任者の内的な成長に至らない。単に、授業技術を身に付けようとする傾向に陥る。(と、2年間の経験で感じる)

おそらく、初任者が自覚的に自分の授業を見つめ、改善していくのは夏休みが明けてからになる。そして、多くの学級がざわつくか、落ち着くかの分岐点である11月を過ぎるあたりに、自己の成長を自覚できるようになる。

そして、その成長が所属する学校の他の先生、少なくとも初任研の担当の先生の目に明確に映るのが、1月か2月の頃ということになる。

私が、著作物を改めて紹介するのはこの時期なのだが、「1年かけて、やっと興味を持っていただけたか」という思いもある。

もう少し、こうしたことをつづけていけば、この地域に少しは「教師教育学」的な方向から初心者を見ることができる先生が育つかもしれないなという、淡い期待を持っている。

 

初任者の成長を感じる時期……初任研中学校国語の現場からの報告 その16

以前、教師教育学の考え方に沿って、初任研で指導した2年目の先生が、地域の授業改善の中心となっている大学教授のお褒めをいただいたという、話題を提示した。

 ここまで、顕著ではなくとも教師教育学のプログラムに沿っての初任研の取り組みは、効果を上げていると思う。

 たとえば、1年目の研究授業の最後で、どんな研究会の授業提供に出しても恥ずかしくない、と評価される先生がいた。また、1年目の終盤に、難しい学級の担任に、年度の途中であるにもかかわらず、抜擢された先生がいた。また、2年目で生徒会を任され、地域のニュースに取り上げられるような実践を行った先生もいた。

 そして、なんといっても初任研の指導教官の授業を相対化してみることのできる、授業を見る目が培われてくるのである。

 これは、ALACTサイクルに基づくリフレクションの繰り返しによって、育ってくる力だと思う。

 これを繰り返すことで、示範授業→初任者の実践の流れが、一緒に授業をつくるという方向に移行していく。

 ここ2年間を振り返ると、初めから示範授業は無しにしてもいいのかもしれないとか、示範授業と自分の実践を比較することでリフレクションしやすくなるのかなとか、揺れる感じである。

 しかし、初任者の内発意的な開発を考えるなら後者であろう。ただ、初任者によっては外的な評価に目が行ってしまう傾向の人もいるので、ケースバイケースで臨むのがよいのだろうと思う。

 この見極めであるが、「現代的な諸課題」に対して、普段ニュースや一般的な啓発本に載っているような回答をしてくる初任者は外的な面を気にする人なのだろうと考えている。

 少しでも、自分の経験や生活実感に基づく発言があると、自分なりの考えで迫ろうとしているのかな、という思いになる。

 ともかく、「教師のリフレクション」による、初任者研修の深まりは確かな手ごたえとしてある。

 そろそろの終了のこの時期には、「先生の取り組みで学習集団がここまで出来上がってきています」という、励ましが可能になってくる。

 つまり、学習集団がとても良い具合に回っていくのだ。学習集団が機能し始めるといってよいかもしれない。安心して、生徒たちが話し合いをしている姿や、学習へ向かう姿勢が安定してくるのが見える。

 こうなると、初任研指導の役割が終盤になってきたなと思う。

 以前ならば、こうした状態は、特定の条件の教師にしかやってこないと思っていたのだが、ここ2年程の経験は、かなり多くの、いや、ほとんどの初任者に訪れるといってよいことを教えてくれている。

 

どうしても、学校の中に教師教育学の素養を持つ先生が必要だ  初任研中学校国語現場からの報告(その15)

ある日「先輩の先生の中に、生徒の前に出過ぎる先生がいて、気になる。」という相談を受けた。

基本的には、その先生の行動が初任者の授業や、初任者と生徒の関わりに影響を与えることはない、と伝えた。

一方で、初任者が、「生徒を信頼すること」に明確な手ごたえを得ていることに、成長を感じることでもあった。

私が「危うい」と感じるのは、初任者が「〇〇でなければならない」という方向に思考を固めてしまうことだ。

上述の初任者とは別の初任者が、指導主事訪問の授業提供を行うことになった。

しかも、指導主事訪問の通例に倣い、共同実施という形である。初任者の指導案を国語科や社会科や英語科などの先生方がチームを組んで作るというものである。

ここで、多くの先輩教師から出てくるのは、「授業はこうしなければならない」という思い込みの発言のようであった。

ある場合は、この教材では、このような指導をすべきだ、という主張である。その多くは、指導案に未熟ながらも記述された「生徒の実態」や「初任者の指導の意図」を全く無視したものになる。言い換えると「わたくしの過去の経験ではこうなるのがよい」という主張の域を出ないものになる。それならば、初任者が経験した教室の事実はどこへ行くのだろうか?

また、こうした指導法がある、こうした発問がある、という具体策の際限ない提示になることもある。

では、初任者が提示した「〇〇という方法」や「〇〇という発問」は、その具体策とどう違うのだろうか?

くだんの初任者は、何人かの先輩教師(国語科や社会科などの「教科群」の先生方)との「指導案検討会」で、その案は、根こそぎ覆され、全て書き直し指導を受けた。しかも、先輩教師のやっている授業方法でやるようにと、学習過程も書き直しを命じられた。(私は、このような学習方法でなければだめだ、学習レベルも意欲も生活環境も違う生徒に、一律に方法を押し付ける学習指導と被ってしまった。)

私は、後日、その話を聞き、先輩教師の出した案と初任者の書いた指導案を見比べて、学習指導要領に沿った記述ができない、という、初任者の記述の未熟さだと感じた。今どきの言い回しだと「リテラシー」の未熟さである。(二つの違いを画像にして、文章の最後に提示します。)

しかし、多くの先輩教師は「授業技術」の未熟さと捉えたのであろう。

そこで、私は「指導案検討会」の中心であったろう中堅教員の先生方と話せる機会を持ち、指導案作成にあたっての初任者の記述の未熟さが、先輩教員の混乱の原因であり、学習指導要領や学校の年間指導計画と齟齬をもたらす授業を計画しているのではないことを説明した。

何とか納得していただき、初任者の授業は、当初初任者が計画したものと基本線を崩さず、実施できることになった。

 

私が、ここで問題にしたいのは、次の点である。

1 (初任者の)指導案を検討する時、その先生が何を意図しているかを明確にすること。それは、初任者の状況は様々であるため、「リフレクションのための8つの質問」のような、その指導案の状況や背景を理解する手立てを理解している(つまり教師教育学の素養のある)先生が、検討会の中に必ず一人以上はいること。

 ただし、「学習する学校」(ピーター・M・センゲ)では、「推論の階段」という方策を提示して、教師教育学的なアプローチとは別の方法を提示している。こうした研修を受けている先生でもよい。

2 検討会に参加する先生方も、「教師は教えられたようにしか教えられない」というゲシュタルトのくびきを理解し、それぞれの持つ指導方法や授業技術を絶対的なものと捉えない、柔軟な思考を持つこと。

 少なくとも、目の前の子ども達は、10年前の子ども達とは違っているという感覚があるとよい。

 

この二つは、どうしても学校の中に(特に中堅教員)に、「教師教育学の素養を持つ先生」が必要であることを示しているように思う。

 

改定前

改定後

 

初任研中学校国語現場からの報告(その14) 支援員の立場で「省察」を試みる

 初任者が「省察」を身につけつつあるとき、「省察」をもう一歩進めさせたいと、私は思うようになった。一度、省察メタ認知できるようなことができればよいと考えたのだ。

学級の中の「特別に支援を要する生徒」と学校から認定(?)されている生徒がいた。この生徒には、「学習支援員」が貼り付けになっている。

今まで初任研指導を担当したすべての学校で、同様のことが起き、同様の振り返りが起こってくる。ほとんど例外がないので、面白い現象だなと思っている。

 この対象の生徒をSさんとしよう。

 ある日の授業の振り返りで、初任が、このSさんの手いたずらが気になったとする。この生徒には、支援員さんが貼りついているので、初任者が「支援員さんの立場で省察してみる」ということを思いついた。

 

1)支援員さんは、Sさんにワークシートの作業をさせたい。

2)そこで、声掛けをした。具体的な指示をして「こうやるんだよ」と働きかけた。

3)支援員さんは、Sさんはみんなに行動を合わせるべきだと考えていた。

4)支援員さんは、Sさんの行動を「もどかしい」と感じ、イライラしていたに違いない。

 

 客観的にも見ることができる分、以前の省察よりすらすらと出てきたように思う。4)のその時の感情を振り返る際に、初任者自身の「あせり」も重なっているように思えた。

 次に、Sさんについて質問した。

 

5)(学習課題についての)情報をタブレットから得ようとしていたが、うまく進まない。

6)手いたずらを始めた。

7)Sさんは成果を出したいと考えていた。

8)焦る気持ちが出てきて、声掛けにより自分のペースを乱されたくないとも感じた。

 

初任者は、生徒の感情と支援員の感情のズレに気づいた。それは、教師としての初任者と生徒としてのSさんの感情のズレでもあった。

 私が、ズレを指摘するまでもなく、このズレを改善するためには、どうしたらよいかを初任者は考え始めた。

 この際に、私は、当時の教室の状況に目を向けさせたいと考えた。それは、学習集団の中で、Sさんの行動が起きているのであり、決して個別学習の中で起きているわけではないからである。協同学習の中で起きているからこそ、学習集団の中での関係性を追求することなしに、本質が見えなくなると考えたからだ。単に、S君への技術的な「対応の仕方」で終わらせたくなかったのである。

 そこで、Sさんの周囲にいた生徒の様子に注目させた。

 

9)Sさんと支援員さんのやり取りの際に、Sさんに話しかけようとしていた生徒(Yさんとする)がいた。しかし、このやり取りが時間がかかりそうだと思ったのか、その場を離れた。(Yさんは、協同的な学習の場面では、よくSさんと一緒に課題を解こうとする姿が見られていた。)なお、支援員さんの声掛けでは、課題へのとりかかりは見えなかった。

10)支援員さんが離れるタイミングを見計らって、Kさんがやってきた。Kさんの声掛けに、Sさんは素直に応じ、課題についての話し合いを始めた。

 

 9)と10)の状況から、初任者は、YさんとKさんによるSさんへの支援を固定化することを考えたようである。 

 しかし、Sさん(「手いたずら」ではなく、学習への「取り組み」)を気にしていたのは、YさんやKさんだけではなく、学級の中にたくさんいたのだ。

 この集団としての、学習への取り組みやSさんとの関係づくりを、より顕在化させるのが、実は遠いようで、もっとも近いズレの解消のように思えた。

 たとえば、今回のズレを個別の生徒と個別の大人の関係の改善に求めたとしたら、単なる言葉がけの工夫に陥るように思える。そして、そのような「技術」を個別の大人に強いることは、支援員さんの「善意」を活かしはしないだろう(逆に、傷つけるといってよい)。

 また、YさんやKさんにSさんとの関係を強いることは、新たなマル・トリートメントを作り出すことになるだろう。

 しかし、集団の中にある多くの善意を活かせるようになれば、Sさんにとっても、抵抗が少なく(Kさんとの関わりのように)、また、周囲の生徒にとっても遠慮なく(YさんやKさんのように)、Sさんとかかわることができるだろう。また、そのような、集団の働きがあれば、支援員さんも焦ることなく、Sさんとの関わることができるであろう。

 初任者は、二つの改善策を考えた。一つ目は、目標設定の際に、集団としての行動目標を示すことである。それは、より多くの生徒同士の関わり促すことである。二つ目は、支援員さんと初任者が、ともに集団の成長を意識した声掛けについて打ち合わせの機会を持つことである。

 二つの解決策に共通するのは、「勇気づけ」である。

 

 

初任研中学校国語現場からの報告(その13) 教師の意図、生徒の意図

 初任研の校内授業研修も9月を過ぎることから、校内の授業研究会の中で、初任者の授業を検討する機会が出てくる。この際に「指導案」を提出するのだが、この作成の際に常に気になってしまうのが、「本時の学習過程(あるいは指導過程)」と言われる部分の、「教師の(指導者の)働きかけ」と「生徒の反応」、あるいはこの二つを合わせた「指導上の留意点」と言われるところである。

 たとえば、次のような記述になることが多い。

 教師の働きかけ「〇〇という方法で生徒に働きかける」

 生徒の反応「△△に取り組む。」

 この場合、教師の「正常な」働きかけがあれば、生徒は「正常に」動くだろう、という記述である。

 少し、詳しくなると、「正常な」反応からこぼれる反応の例を挙げ、それに対する対処をさらに詳しく記述するということになる。あくまでも、教師の働きかけの「意図」に沿って、生徒は反応する(あるいは、反応「しなければならない」)という記述である。

 しかし、教師がある意図をもって働きかけたときに、生徒もある意図をもって反応するというのは、心理学的な視点を導入するまでもなく当然のように思われます。

 すると、指導案の記述において既に、教師の意図と生徒の意図のずれが起こる可能性を含んでいるわけです。

 授業の事後検討会では、教師の意図通りに生徒が反応しなかったことについて、延々と議論がなされることは珍しくありません。そこでは、「生徒の意図」については、全く語れず、教師の意図がより良く実現されるための「方策」や「技法」が列挙されたりするわけです。

 しかし、指導案の形式自体がそういうものなので、これをどうこうすることで授業検討の質を変えることは考えない方がよいと思います。

 おそらく、多くの先生方も感じているように、指導案そのものよりも、その場での生徒の反応に興味がわくことの方が多いように思うのです。それならば、指導案の形式に縛られて「生徒の意図」を見逃す検討会にするよりも、教師と生徒の「意図のすれ違い」や「意図の一致」について授業検討した方が面白いし、授業を提供してくれた先生や、授業を参観した先生の得になる気がします。

 初任研の授業研修でも、このような場面をつくりたいと考えています。

 ある授業で、協同的な学習を組んだ際に、生徒のRさんが最後まで残ってしまったことを、初任者の先生は問題にしました。

 

1)何人かの生徒はRさんの支援を続けていたが、初任者は全員(なるべく多くの生徒)がRさんに関わってほしかった。

2)そこで、授業の振り返りの際に、そのことに触れて、全員の協力を要請した。

3)初任者は、全員が関わることが大切だと考えている。

4)そこから考えると、周囲の生徒の行動は良くないと感じた。

 

 通常の授業検討会なら、この自評に沿って、生徒が望ましい行為をする支援のあり方について、具体的な技法の検討や教師個々の体験からくる方策について意見交換がなされたことでしょう。

 初任研での私は、初任者に次のような投げかけをしました。

 では、生徒は「どんなことを意図して、どんな行動をしたのでしょう。そして、どう考えて、どんな感情を抱いたと思いますか?」

 初任者の反応は

1)自分たちも助けなくてはいけない、ということは分かっている。

2)Rさんに関わっている生徒がいるので、その人たちに任せた。

3)関わっている人たちが何とかしてくれと考えていた。

4)関わらなくてはいけないと感じながら。

 

 通常の検討会であれば、初任者の「周囲の生徒」は「よくない」という感情は残されたままになるはずです。つまり、教塩と生徒のわだかまりを残したり、違和感を大きくしたりという結末を迎えるはずです。これだけ、具体的な指導をしたのに、初任者の授業はなかなか改善しないとか、初任者は初任者で、これだけ具体的な手立てをしても生徒の状況は改善しない、私はなんて力がないんだということになっていくでしょう。

 しかし、生徒の意図や感情を理解していくことで、初任者は、授業の流れを教師の意図に引き付けようとしていくあまり、生徒の行動の意図を見誤っているとこに気づきます。

 ここからの改善は、生徒の行動の意図を明確にとらえて、生徒の行動を励ますことにつながっていくでしょう。

 この気づきの後での、具体的方策の例の提示は、初任者に入っていったように思えます。

 

初任研中学校国語現場からの報告(その12) 目標の設定

 初任者が、ある学習の目標設定を生徒にとっては高度だと思い込み、設定を下げてしまうことがある。ベテランの先生でも、「スモールステップ」と称して、知らず知らずのうちに学習目標を下げることが見られる。

 この時に、生徒の学習に関する教師の予断がないだろうか? 「どうせ、〇〇校の生徒だから」という思い込みはないだろうか?

 さまざまな教育理論は、人間は安全・安心な学習環境を整えてやると、積極的に、少なくとも、抵抗なしに学習に取り組むことを示している。そうであるならば、まず教室の環境として、互いに支え合う集団を作っていくことが、第一になればよいと思う。

 ところが、どうしても初任者は、「今日のこの授業をどのように乗り越えようか」という発想をしてしまう。しかも、高校、大学とそれなりの成績をとり、「選ばれて」教師になった、という自覚の強い初任者ほど、「自分が」授業を失敗したらどうしよう、という発想に陥ってしまう。まさに、結果を褒められて育った生徒は、簡単な問題を選択したがる(挑戦しようとする意識が低くなる)という傾向である。

 そこでは、「生徒が育つ環境を作る」という発想が抜け落ちる。そして、「なるべくたくさんの生徒が結果を得るためには、目標を下げればよい」という発想に行きつく。もちろん、学習指導要領に示された内容は、いかようにも理屈づけていく。

 「生徒のため」を前面に押し出しながら、実は、「できる自分」と思わせることが、第一になってしまう。どうしても、自分が他者からどう評価されるかに、重心が移ってしまう。

 コルトハーヘンは、こうした傾向の実習生を「外的志向」のある実習生と呼び、すぐに省察的な学びへ導くのではなく、少しづつ、そちらへ近づけることを提案している。まずは、「外的志向」の強い実習生を褒めることから始めるよう示唆している。

 私が、ある初任者について、この傾向を明確に感じたのは、初任研が始まって3か月を過ぎたあたりからだった。

 思えば、同僚の先生の協力を得ながら、「私の琴線に触れた先生」のエクササイズを行った時に少しの違和感を覚えたのだが、私は深く考えることもなかった。そのため、この違和を自分の中で見過ごすことになってしまった。

 このエクササイズでは、多くの先生方は、小中学校のころの先生を引き合いに出し、人生の転機や心構えのような形で表現するのだが、この初任者は、「大学の教材研究法の先生」を挙げた。しかも、その「語り口」が最も琴線に触れたというのである。自分の生き方やあり方を振り返るものではないところが、異色だった。

 もしかしたら、先輩の先生に囲まれて(プレッシャーで)自己開示できなかったのかなという感想も持ったが、私の中では、こういうこともあるのだという思いであった。

 過去に受けた授業を語ることは、自分の今の行く末を語ることに近い。目指すべき理想を

示しているように思う。だから、教師は「教えられたようにしか教えられない」のである。しかし、今の理想が変われば、つまり、授業に対するゲシュタルトの変換が起これば、過去の授業への想いも変わってくるだろうと思っている。

 初任者が示した授業の像は、強烈な教師主導の授業であったことに気付くべきだった。しかも、そこで授業を受けている「主体」は、教師の話を「受け止めている」だけだったのに。

 その後、示範授業と初任者の授業の比較から学べること、授業の省察、特にぎt織の生徒の学習に焦点を絞っての省察などを繰り返したが、どうしても、教師主導の授業づくりの傾向から抜け出せないように感じていた。

 例えば、授業の振り返りによって、「生徒に学習を任せる」という認識を得て、次の時間に実践したとすると、特定の生徒に長時間かかりきりになる。あるいは、このときに、生徒が安心して学習に取り組む環境づくりは無視してしまう。作文の課題が200字の作文を完成させることなのだが、それぞれの生徒の進度を無視して、ともかく、何時間もかけて先生の望む表現に、すべての生徒の「作品」を近づけさせる。授業の省察の場面になると、生徒の行為や、教師の行為への振り返りは、ほとんどが、自分に力がないから、自分が気づかなかったから、という「反省」になってしまい、本質的な気づきに至らない、などの傾向が起きてきた。

 これらのことが、初任者が「外的傾向」が強いことからきているということに、思い至るのに、3か月かかってしまった。

 コルトハーヘンは、まず、ほめることから始め、手順や指導法を具体的に示すことによって、省察へ至れるよう育てていくことを提言していた。

 このことに、私自身が挑戦していかなければと思った。

 ある日の授業の振り返りで、「このような手順で取り組んでみてはどうでしょう」という提案をした(申し訳ありませんが、手順の詳細は省略します。)。

 その次の時間で、初任者は手順通りの授業をして、確かな手ごたえを感じたようだった。私は、振り返りで、手ごたえのあったことを大いに称賛した。

 これを、何度か繰り返すと、初任者は「こうすればよいのではないか」という発言をするようになってきた。まだ、外面的なことに集中はしているようだが、振り返りの芽は出てきているように感じた。

 それに伴い、「目標設定を下げる」傾向は薄れていった。

 さて、「省察」へあと一歩である。